洞光寺について
About
ご挨拶
松江 洞光寺住職、諏訪文哉です。禅宗の一つ、曹洞宗に属し、信仰の大黒柱は坐禅です。境内には、坐禅修行専門のお堂、坐禅堂が建っております。 広瀬に生まれ、松江開府と共に歩む、尼子清定・経久公開基の寺、洞光寺。小泉八雲の愛した寺で永代にわたって供養を、と考え、平成19年10月に本堂左手前に「永代供養廟」を建立いたしました。 令和元年5月には、昨今の少子化や、都会への人工流出に伴う跡継ぎの問題などで、急激に多様化する葬送ニーズにお応えするため、お墓の頂上付近にメモリアルガーデン 洞光寺と称して、「永代供養付建売墓石区画」「永代供養付替木葬区画(メモリアルガーデン洞光寺)」の二つの墓地形態を展開してます。 葬儀場としては、平成23年11月に洞光寺が業務委託した専任スタッフに誠心こめて葬儀全般を執り行ってもらおうと、下の駐車場近くに「洞光寺会館」を建設いたしました。無理なくそして快くお見送りしていただけるよう努力しております。 本堂では葬儀や法事のほか、落語、お茶会、コンサート、演劇など各種イベントにも会場提供し、皆さまにお楽しみいただいております。 地域に根ざし、より皆さまのしあわせにつながるよう、今後とも精進する所存であります。 このたび、ホームページをリニューアルしました。どうぞご利用いただければと存じます。合掌。
洞光寺の歴史
洞光寺は、戦国時代、尼子家の菩提寺として新宮村金尾の地にありました。時はまさに今から約五百数十年前の戦国時代。その戦国大名の一人、「毛利元就」の好敵手、尼子家を開基とするお寺がこの洞光寺である。尼子家の祖先はその当時、近江国(今の滋賀県)犬上郡甲良荘尼子郷の地を分与された京極高久で、尼子の名は、この地に由来し、この高久の次男、持久が出雲守護代として富田城に入り、出雲尼子の祖といわれる。
それから七十年後、京都を戦乱の巷にする「応仁の乱」が勃発し、尼子清定は勢力を拡大し、京極氏の元に預けられていた息子の経久の時代には、出雲平定を完了し、近隣諸国にも支配を広げました。経久は一度城を追われましたが、奇策で奪回し、亡き父の志を継ぎ金尾に洞光寺を建立、大拙真雄禅師を請じて開基しました。経久の孫晴久の頃には、尼子氏は曹洞宗の僧録を輩出しました。
富田城落城後、毛利元就は洞光寺に寺領を寄進し、代々保護しました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴が富田城に入城し、松江城に移転(慶長12年着工、16年完成)に伴い、慶長13年に洞光寺も松江に移転しました。松江城下町に移転後、松平直政公から寺領を寄進され続けました。文化14年(1817年)に火災で焼失しましたが、弘化2年(1845年)に中興佛州観教和尚によって再建され、現在に至ります。
尼子経久公について
三十代の前半の時で、つりあがった眼、ひきしまった口もと、名門佐々木氏の流れをくむ上品な束帯姿は、その頃の前進しようとする力強さが伺える。反面、忘れてならないのは素晴らしい人徳である。
「雲陽軍実記」によると、経久公は貴賤男女の別なくあわれみを与え、まして自分の部下に対しては、その上下を問わず、負傷したものの傷口を吸ってやり、薬を与え、討ち死にすればその子孫をいたわって、土地を与え追善供養も怠らなかったと言う。
「塵塚物語」によれば、底抜けに無欲な人で、訪れたものが経久所持の品をほめると、墨蹟、衣服、太刀、さらに庭松に至るまで惜しげもなく相手に与えたといわれる。とにかく無欲でスケールの大きな立派な武将であった。
小泉八雲ゆかりの寺
当寺は、明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が深く親しんだ寺院として広く知られています。八雲は松江滞在中、当地の風情と人々の心にふれ、しばしば当寺を訪れたと伝えられています。その静謐な佇まいと、祈りの空気に触れた経験が、後の作品にも大きな影響を与えました。今日も、彼が見つめた情景と変わらぬ穏やかな時が流れています。
『知られぬ日本の面影』に登場する鐘の音は洞光寺のもので、八雲はその鐘の音を「仏教ならではの高らかでかつ柔らかい音」と表現しました。
連続テレビ小説『ばけばけ』では当寺の鐘の音が流れました。
雑賀小学校・山陰家庭学院 創立の地
◎雑賀小学校発祥の地
明治5年(1872)学制が敷かれ、同6年4月20日、
洞光寺庫裡を借りて第一中学区第一番小学である「雑賀小学校」が開校された。
◎山陰家庭学院発祥の地
明治34年4月3日(1901)、当山坐禅堂を借用して
「山陰慈育家庭学院(現在の社会福祉法人山陰家庭学院)」が創立された。
薬師堂
洞光寺のご本尊様は、お釈迦様ですが、実はこのお寺は、ここに祀られていた薬師如来様から始まりました。
昔々、保元年中(1156~1158年)に、平家の勇将、悪七郎兵衛景清という方が富田城を築いたとき、眼病になってしまいました。そこで、この薬師如来様を拝んで祈ると、すぐに眼病が治ったそうです。それ以来、景清は薬師如来様を城の中の一角に安置して、大切に祀っていたそうです。
坐禅堂
島根県内で坐禅堂が残っているお寺は珍しいです。
現住の祖父・三十七世絶巖獨照和尚のとき、昭和十一年に薬師堂再建と共に、茅葺きだった坐禅堂も現在の瓦屋根に建て替えたもので、建設している。
参禅会など特殊な行事には、こちらの坐禅堂を使用しております。
(真夏・真冬の時期は除く)
半七地蔵像
雑賀町の土族屋敷に住む秋田半七は藩札の偽造の罪で磔になり恨みをのんで死んだ。ある夜、洞光寺の和尚が矢田の刑場付近で白衣の上を荒縄で縛りあげられ、ざんばら髪の亡霊に立ち呼びかけられ「先日ここで処刑された半七でございますが、どうも未練が残り成仏できません。何とぞお助け下さい」と懇願し、和尚は地蔵を作り朝晩の読経をするから成仏せよと諭し、その誓いを実行したところ亡霊は自然と出なくなったという。
その後、霊験あらたかなお地蔵さんとしてお参りが絶えなかったという。
概要
名称
宗教法人洞光寺
所在地
〒690-0057
島根県松江市新町832
電話番号
0852-21-5807
FAX番号
0852-21-1700
代表者
住職 諏訪 文哉
業務内容
・永代供養
・洞光寺会館(通夜・葬儀等)TEL:0852-67-1348
仏事全般承ります。
・回向 ・墓地
・写経会 ・坐禅 ・能楽(金剛流) ・御詠歌
・ピラティス ・ヨガ 等
